接続語がアイドル化したら「そして」ちゃんを推したい
なんなんだ、
暑すぎるだろ最近
白いタンクトップにパンツ一丁の祖父の格好に子供のころは「いやだなぁ、じいちゃんの座っている椅子に拭き残したうんちとかこびりついていないね?」とか本人が聞いたら号泣必須の、なんなら残りの寿命をなげうって自らの死を選択しかねないことを考えていた
しかし、今日に限っては暑い、暑すぎる
パンツ一丁になっても誰も文句言わないよ
許す。すべてを許す。普段他人はおろか自分という人間も許せない俺も今はすべてを許そうと思う
むしろ「俺はパンツ一丁だけどお前らなんでパンツ一丁にならないの?」と理不尽にキレ散らかしたい気分だ
確かにパンツ一丁は恥ずかしい。たとえ家に自分一人しかいないときでもパンツ以外の身に着けたものをとっぱらうのに抵抗を感じる人もいるだろう。誰しもが全力少年にはなれない。
しかし今は緊急を要する事態だ。こうも暑いと人の命もかかわってくる。
命だぞ?
あの物語シリーズに登場する命よりも金のほうが大切だという貝木泥舟も「命だけは取り返しがつかない」というほど命は大事だ
それなのにあなたはまだパンイチになることを躊躇うのか?
それは恥じらいがあるからか?それとも拭き残したうんちが座ったところにこびりつくのが心配か?
うんちにこびりつくリスクをさっき俺が書いたばかりにその心配をするようになったというのなら謝ろう。お詫びにそれを訂正とはいかないまでも補足してその不安を払拭しよう
俺は軽い潔癖症なのだ。なぜ潔癖症なのかはどうでもよくてどうしても気になるのなら母親の影響ということでこの場は納得してほしい。
パンイチだとうんこが座ったところにこびりつくというのは所詮潔癖症の被害妄想ならあなたの不安も多少はなくなるだろう。
冷静に考えてほしい。仮に排泄した自分のケツの穴をお粗末な拭き方をしたことによってうんちが不幸にもしっかりとケツ穴に忘却されたとしよう
しかし幸運にも古代から受け継がれた歴史ある人類最大の発明品の一つ、パンティをはいているのだ。
そのおかげで不幸にもうんちで塗りたくられたお尻の状態で椅子だろうが愛しの恋人の膝に座ろうが、パンティによってうんちがそれらに移るという悲劇はなくなるのだ
せいぜい大腸菌がつくか「おならした?」と疑われるくらいだろう。後者の場合なら「デリカシーなさすぎ」と一言圧をかければそれ以上追及されることはないだろう。
暑い
冬のときに「今日寒すぎ(# ゚Д゚)早く夏来いよw夏と冬どっちが好きか聞かれたら絶対に夏って答えるねw」とか言ったの謝る。ごめん俺が悪かった。
暑いという人類共通の苦難の前では政治的争いや宗教的な対立も今はやめるべきなんじゃないか
武器を、拳を下ろそう
まずはこの暑さを何とかしようぜ
トランプ、つまりお前は「敵」ってことでいいんだな?
暑いのは何も母なる自然だけに責任があるだけではない。
クーラーをつけずに起動しているだけで熱を帯びるノートパソコンをカタカタしている俺にも責任がある。
こんなことならブログなんて始めなければよかったのだ。ブログさえやってなければこんなあっちんちんになったパソコンに触ることもなくプリキュアの続きを見ていられたのだ。
しかし記事を書く手は止まらない。
当たり前じゃないか
こんなに楽しく文章を書くのは初めての経験だからだ
小学校の頃から作文が苦手だった。
指定の文字数を稼ぐためにうんざりするくらいに接続語「そして」を使ったものだ。
たった3文字程度では大した文字稼ぎにはならないが、「そして」はどんな文の冒頭に入れても文章全体の骨組みを邪魔することはない万能な言葉なのだ。
それに味を占めた俺は憑りつかれたようにそしてそしてそしてと書きなぐりまくった。
「接続語48」たるグループがあれば推しメンは真っ先に「そしてっち」にするだろう
「そしてっち」のグッズを買い占め、「そしてっち」のsnsを欠かさずチェックし、「そしてっち」のアンチと掲示板でレスバトルし、「そしてっち」を想いながら眠りにつく。そんな生活をしたい。
読み手の先生からしたらたまったものじゃない。
立て続けに「そして」が続くと流石に疲れるのだろう。
「そして」に続く文は大体ある事実の説明だ
つまり「そして」から始まる文だけで構成される文章に書き手の心理描写が入り込む余地はないのだ
事実のみの文章を読むのはどんな気分なんだろうか
事実のみで構成される文章でぱっと思いつくのは新聞だ
新聞を読むときはみんな真剣だ。その日の情報収集によって一日の生活、人によっては人生そのものが変わりうる。
ということはあのときの先生は俺の事実のみでかかれた文章をすごくシリアスに読んでいたのではないか
もちろん書かれている内容は「今日もうんちでた!」くらいの小学生らしいありきたりなことだ
しかし「そしてっち」によってその拙い文章は姿を変える。
「そしてっち」を自重した文章なら
「お腹が痛くなりました。
とてもつらかったのでトイレに行きました。
するととても大きなうんちが出てきました。
嬉しかったです。
でもそのあとちゃんとお尻を拭けていたのか心配で眠れませんでした。」
ほうほう、この生徒は大きいうんちが出たことに喜びを感じたんだな。
でもお尻を拭けたのか不安だったんだな
ふふっ、小学生らしくてかわいらしいじゃないか
となるはずだ
「そしてっち」が入ると
「お腹がいたくなりました
そしてうんちをしました
そしてうんちは大きかったです
そしてお尻を拭きました
そして布団に入りました」
いかがだろう
「そしてっち」のみで構成される文章に喜怒哀楽という人間の欠陥品的な部分が介在することはないのだ
なんというシリアスな文章だ
この文からこの子が何を考えているのか全く分からない
この子はお腹が痛くなり、でかいうんちをし、寝床について何を感じ、何を得たのだろうか
分からない
この生徒の気持ちがわからない
この子はどういう気持ちでこれを書いたんだ?
自分の日常を淡々と書く行為をどう思っていたのか
「先生はなんで僕の生活を報告させたいんだろう。僕の日常を知ってどうしたいんだろう?僕の日常を監視したいのかな?ちゃんと勉強しているかとか、好き嫌いしないでご飯食べているとか、先生の好きな人がゆうこりんってことをお母さんに言ってないかとか………」
違う!違うんだ!
この作文は生徒を縛るという意図は一切ない!
私は教師として生徒とコミュニケーションをとりたかっただけなんだ…
でもどうだろうか?
私はこんなたった400文字の原稿用紙で生徒の何を知ろうとしていたのだろう、いや、知ったつもりになろうとしていたのだろう。
そもそも生徒全員の気持ちを知ろうとするなんておこがましいことではないのか?
そういう姿勢は生徒一人一人を尊重していない非対等的な関係であるし、所詮大人と子供という上下関係でしかない。
この子はそれを感じ取ったのかもしれない
幼いこの時期にこんな思いをさせてこの子は将来どんな人間になってしまうのか。人間不信になってしまうのではないのか。
人にとって一番大事なことを教えられず、一人の人間にこんな思いをさせるなんて教師失格だ………
おふくろ………俺この仕事辞めるよ
「そしてっち」により、あのときの先生にこんな思いをさせていたのかもしれない。
ちなみに俺はその先生に何の恨みもないしむしろ好きだったし、自分が人間不信のつもりない。上記の心理描写はフィクションである。ただしゆうこりんが好きでそれを生徒に公言していたのは真実だ。
ともかく「そしてっち」には人をこんなにも人をシリアスにする効果を持っているのだ
接続語の中でも断トツの汎用性、そしてここまで人を真剣に、させるなんて流石「そしてっち」。
俺はそれに虜にされて「そしてっち」をあんなにも使っていたのだ。決して文章力がなかったからではない。
しかし文章力がないのは事実でそれは今も変わらない。
大学のレポートでは字数制限があるが俺はその字数制限を満たすことが難しい
勉強不足が原因というのもあるがそれにしても圧倒的に文字数が足りない。
とにかく誰かに何かを説明するのがへたくそなのだ
このブログもおそらく絶妙に文章が怪しいだろうがそんなの関係ない
今3000文字書いている
レポートの2000文字はおろか、原稿用紙400文字ですらひぃーひぃー言っていたのにこいつは笑いが止まらねぇ
楽しくてしょうがないね
このブログは誰かに見せているつもりはない、いわば自己満足である
だから誰にも伝わらなくてよいのだ
だからそういうプレッシャーにさらされることもなく気ままに文字刻んでいく
いやー楽しい!
しかし誰にも伝わらなくてもよいとは言ったが誰かに見てもらいたい
俺は承認欲求の塊なのだ
ていうかブログ書くってそういうことだろう!?
え、他の方は違う…?ならごめんなさい。ほら、iPhoneの土下座絵文字君も謝ってるよ
しかし暑い
暑いからクーラーつけちまったよ
いい感じの温度になってさっきの文章読み返したらなんだよ「そしてっち」って
やっぱり暑さは人をおかしくさせますね